碑めぐりガイド
「ヒロシマ」をご案内します。
市内各所に点在する、被爆の実相を伝える「碑」をめぐり、そのいわれと「碑」に込められた「思い」をご案内いたします。訪れた方と一緒に、「平和の尊さ」と「ヒロシマ」を実感、そして後世の人たちに「ヒロシマを語り継ぎたい、そんな思いで活動をしています。
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- 爆心地・島病院
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爆心地・島病院
病院設立年月日 1933年8月31日(開院)
形状(当時の島病院)
近代的なレンガ造2階建てで、玄関の両サイドの丸柱と円形窓が印象的な建物説明板
「テニアン島から飛来した米軍機 B-29「エノラ・ゲイ号」によって人類史上最初に投下さ
れた原子爆弾は、この上空約600メートルで炸裂しました。爆心直下となったこの一帯は
約3000度~4000度の熱戦と爆風や放射線を受け、ほとんどの人びとが瞬時にその生命を
奪われました。時に1945年8月6日午前8時15分のことでした。」1. 爆心地
当時:広島市細工町29-2 島病院上空
現在:中区大手町1丁目5-24 島内科医院南側大手町第3駐車場上空約600m2. 原爆さく裂の瞬間
T字型の相生橋を投下目標にしたとされる原爆は、島病院の上空約600mで炸裂しました。
さく裂後、中心温度が摂氏数百万の小型の太陽ともいえる火球が発生しました。1秒後に
は半径200mを超える大きさとなり、爆心地周辺の地表面の温度は3000度~4000度にも
達しました。爆心地から100m地点での爆風は秒速約280mでした。(鉄の溶ける温度は
約1500度、太陽の表面温度は約6000度)3. 島病院の被災状況
被爆当日、島病院の院長(島薫氏)は出張診療で不在だったため難を逃れました。建物は
瞬時に壊滅し、約80人と推定される患者・看護婦などの病院内にいた人は全員が亡くなり、
姿は跡形もなかったと言います。 - 原爆ドーム
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原爆ドーム
原爆ドームは1915(大正4)年に、チェコ人のヤン=レツッル氏の設計で広島県物産陳列館として建てられ、1933(昭和3)年に広島県産業奨励館となりました。
あの歴史的な一瞬、この建物はそこで働いていた人々と運命を共にしました。しかし、爆心点のほとんど直下にあったため、建物は倒壊をまぬがれ、がらんどうの残骸を残しました。一面焼け野原となった広島で、鉄骨ドームの特色ある姿は、遠くからもはっきりと捉えることができました。周囲の町並みが次々と復興されていくなかで、ここだけは被爆当時のありさまをそのまま残していました。こうして、いつの頃からか「原爆ドーム」と呼ばれるようになりました。
原爆ドームの歴史
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1966年
(昭和41年)広島市議会原爆ドーム保存を決議
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1966年
(昭和41年)浜井広島市長が、保存工事費4,000万円は全額募金でまかなうことを表明
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1967年
(昭和42年)募金4,000万円を突破、募金打ち切りを表明。最終的には、6,800万円集まる
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1967年
(昭和42年)保存工事及びドーム周辺整備工事完了
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1987年
(昭和62年)20年ぶりにドームの調査を行い、その結果 、早い時期に補修工事が必要であることが判明
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1989年
(平成1年)荒木広島市長が、工事費2億円のうち、1億円は募金によることを表明
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1990年
(平成2年)原爆ドーム保存工事完了
原爆ドーム保存事業基金設置 -
1996年
(平成8年)100万以上の署名が集まり、政府・国会を動かし世界遺産となる
※「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」(通称 世界遺産条約)は、世界の貴重な文化遺産と自然遺産を保護し、次世代に継承する事を目的として、昭和47年のユネスコ(世界教育科学文化機関)総会で採択され平成8年5月現在、146カ国が加盟しています。
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- 原爆犠牲ヒロシマの碑
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原爆犠牲ヒロシマの碑
建立年月日 1982年(昭和57年)8月5日 建立者 原爆犠牲ヒロシマの碑建設委員会 制作者 芥川 永 天が、まっかに 燃えたとき
わたしの からだは とかされた
ヒロシマの 叫びを ともに
世界の人よ
(安田女子高校生蔵田順子さん原案)惨状を極めた元安川の川べりに残っていた被爆瓦を発掘して、その保存を訴えた広島県高校生平和ゼミナール実行委員会の運動が実り1982(昭和57)年8月5日、平和記念公園対岸の緑地帯に建立されました。
戦争体験を持たない若人達の碑です。ブロンズ像は、テーマ「もどれない風」で昇華する魂を表現したものです。表に被爆がわらを組み合わせたパネルと碑文、裏に発掘作業のレリーフ、被爆後の焦土広島の全景写真、これに英文と和文の説明を加えた陶板がはめこまれています。
- 原爆供養塔
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原爆供養塔
建立年月日 1955年(昭和30年) 建立者 広島戦災供養会 制作者 石本 喜久治 このあたりは中島本町という繁華街が存在し、慈仙寺という大きなお寺がありました。ところがこの町が原爆により一瞬にして地獄と化し、数日後黒焦げになった死体や、皮のむけた丸裸の死体が運び込まれ焼かれました。
翌年、仮納骨堂が建てられ、その後10年たった1955(昭和30)年、現在の円形古墳を形どった供養塔が完成し、各地に散在していた遺骨をここに集め納められました。6~7万柱ともいわれ、そのうち名前がわかりながらも引きとり手のない遺骨は、816人(2012年現在)あります。多くの無縁仏は原爆の悲惨さを語り続けています。
毎年8月6日の早朝より夕方まで各宗派がこの場所で供養しています。
- 原爆の子の像
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原爆の子の像
建立年月日 1958年(昭和33年)5月5日 建立者 広島平和を築く児童・生徒の会 制作者 菊地 一雄 これは ぼくらの 叫びです
これは 私たちの 祈りです
世界に平和を きずくための折り鶴の像ともいう。佐々木禎子さん(当時2歳)は爆心地から1.7キロメートルの楠木町の自宅で被爆して10年後、幟町小学校6年生の時、亜急性リンパ腺白血病と診断され日赤病院に入院しました。その時友人からの手紙で、鶴を1000羽折ったら願いがかなうことを知り、薬の包み紙を使って回復を祈りながら折り続けました。何羽折ったか正確な数は分かりませんが、9ヶ月の闘病生活ののち1955年(昭和30年)12歳で死亡しました。折り鶴は死後友人たちに形見として分けられ、その数羽が資料館に展示されています。級友たちは毎月命日の25日に集まることを約束し、「こけしの会」を作りました。会の呼びかけで広島市内の小、中、高の児童会、生徒会が立ち上がり、「広島平和を築く児童・生徒の会」を結成、被爆者に白血病が多発する中、子どもたちの手で「原爆の子の像」を作ろうと運動を起こしました。広く国内外へも呼び掛け1958年(昭和33年)5月5日の子どもの日に除幕しました。
折り鶴は「再び被爆者を作らない」決意の証しとして日本及び外国でも反核のシンボルとして使われています。
- 韓国人原爆犠牲者慰霊碑
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韓国人原爆犠牲者慰霊碑
建立年月日 1970年(昭和45年4月10日) 建立者 在日大韓民国居留民団広島県本部
広島韓国人犠牲者慰霊碑建設委員会(碑文の一部の訳)
「悠久な歴史を通じ、わが韓民族は他人の物を欲しがらなかったし、他民族にも害を加えようとしなかった。(中略)
しかし5000年の長久な民族史を通じ、ここにまつった二万余柱の霊が経験したような悲しくて嘆かわしいことは、かつてなかった。
韓民族は、この太平洋戦争を通じ、国家のない悲しみを骨身にしみるほど感じ、その絶頂が原爆投下の悲劇であった。」明治維新以後、朝鮮支配を強めた日本は1910(明治43)年に朝鮮を完全な植民地にしました。土地を奪われた民衆は大変苦しいめにあわされ、太平洋戦争が激しくなると人手不足を補うため強制連行や徴用、徴兵制度によって日本に連れてこられ働かされました。
被爆当時、広島市に住んでいた数万人のうち、2万人余りが犠牲になったといわれます。
みかげ石の巨大な亀が、韓国の銘石で作られた碑柱を背負った高さ約5メートルの碑で、双龍の絵柄を刻んだ冠が被さっています。この碑は「なぜたくさんの朝鮮人、韓国人が広島で被爆したのか」と問いつづけています。
碑石は韓国から運ばれたものです。本川橋西詰めにあったこの碑は、1999年7月に現在の位置に移設されました。
碑文 国文学者 韓 甲沫
表題揮毫 李孝祥 - 平和の灯(へいわのともしび)
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平和の灯(へいわのともしび)
建立年月日 1964年8月1日 建立者 平和の灯建設委員会 設計者 丹下健三(当時・東大教授) 建立の目的 水を求めてやまなった犠牲者を慰め、核兵器廃絶と世界恒久平和を希求するため。 全国12宗派35社寺・教会から寄せられた“宗教の火”、溶鉱炉などの全国の工場地帯から届けられた“産業の火”が、1945年8月6日生まれの7人の広島の乙女により点火された。この火は、点火されて以来ずっと燃え続けており、核兵器廃絶まで燃え続ける灯を、日本全国民の平和の象徴としたいとの願いが込められている。
- 平和乃観音像
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平和乃観音像
建立年月日 1956年(昭和31年8月6日) 建立者 旧中島本町住民 制作者 荒井 秀山 平和公園北側は、昭和初期までもっとも繁華な、中島本町があった所です。爆心地に近かったため、町民は一瞬にしてほとんどが全滅しました。戦後平和公園となったので、8月6日のあの日、外出中で生き残った人たちが集まり、中島本町会を結成しました。今は無い町に対する惜別 の情と犠牲者の慰霊の意を込めて、観音像を建てました。
公園内に、宗教的なものを建ててはならないと、当局からの指導があったのですが、芸術作品であるからと押し切ったそうです。近くには、旧中島本町の復元図があります。
- 広島平和都市記念碑(原爆死没者慰霊碑)
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広島平和都市記念碑(原爆死没者慰霊碑)
建立年月日 1952年(昭和27年)8月6日 設計 丹下 健三 安らかに眠って下さい
過ちは
繰返しませぬから
雑賀忠義中央の石室には原爆死没者名簿が納められ、死没者の名は毎年書き加えられています。(2013年8月6日現在286,818人)。形は、はにわの家型に造られており、犠牲者の霊を雨露から守りたいという気持ちを表しています。
現在の慰霊碑は、1985(昭和60)年に改築したものです。みかげ石を使い形や大きさは、以前のものと変わりありません。
碑文について解釈はいろいろありますが、現在では国籍を越えて、この碑の前に立つすべての人間が、自国の問題、人類の一人として、二度と核戦争をしないことを誓うことだという解釈がいきわたっています。
- 峠 三吉 詩碑
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峠 三吉 詩碑
建立年月日 1963年(昭和38年)8月6日 建立者 峠三吉詩碑建設委員会
平和のための広島県文化会議峠三吉は28歳の時に、爆心地から約3キロメートル離れた翠町の自宅で被爆しました。戦後、青年運動・文化運動を通じ、次第に平和運動の先頭に立つようになり、原爆反対平和擁護の作品を数多く発表しました。
1953(昭和28)年3月10日死去、享年36歳でした。 - 原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑
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原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑
建立年月日 1971年(昭和46年8月6日) 建立者 原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑建設委員会 制作者 芥川 永 太き骨は 先生ならむ
そのそばに 小さきあたまの骨
あつまれり正田 篠枝
米軍占領下の中で1946年広島刑務所の印刷部で秘密出版された歌集「ざんげ」は、その後補完の上、被爆歌人の手記「耳鳴り」に「ざんげ」として収録された。原爆によって生命を奪われた子どもと教師の霊安かれと祈念するとともに、平和の教育を"ひろしま"の教育として押し進める決意から、一口200円の募金活動を進めて建設したものです。
1941年(昭和16年)、小学校は国民学校と名を改められ、戦争が激しくなる1944年(昭和19年)11月頃から高等科(現在の中学1~2年生)の生徒は、建物疎開作業に動員されていました。
1945年(昭和20年)4月から7月にかけて初等科3年生以上の児童は強制疎開で親元をはなれ、広島市内には1,2年生の低学年が残され、寺院や集会所に分散して授業を続けていました。この頃夏休みは、8月10日から20日までという戦時体制をとっていたようです。
被爆死した教師は約200人、児童約2000人と推定されています。
毎年8月4日には市内の小中学校の児童、生徒代表をはじめ、教育関係者がたくさん参加され慰霊祭が行われています。
- マルセル・ジュノー博士記念碑
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マルセル・ジュノー博士記念碑
建立年月日 1979年9月8日 建立者 ジュノー博士記念碑建立会 製作者 芥川永(あくたがわひさし)(当時・比治山女子短大教授) 建立の目的 被爆者救援に人道的立場から尽力した博士の功績をたたえるため。 碑文
「1945年8月9日、赤十字国際委員会の駐日主席代表として来日 広島の原爆被災の惨状を聞くや直ちに占領軍総司令部へ行きヒロシマ救援を強く要請。9月8日調達した大量15屯の医薬品と共に廃墟の市街へ入り惨禍の実情を踏査 自らも被爆市民の治療にあたる。
博士の尽力でもたらされた医薬品は市内各救護所へ配布 数知れぬ被爆者を救う 博士の人道的行為に感謝し 国際赤十字のヒューマニズムを讃え永く記念してこれを建てる」裏面の碑文
「無数の叫びがあなたたちの助けを求めている
M.ジュノー著「第三の兵士」より」マルセル・ジュノー博士(1904年~1961年)
スイスの医学者。彼の来日した目的は、連合軍捕虜などの動静を調査することであった。
しかし、原爆被害の惨状を知ると直ちに連合国最高司令官総司令部へ救援を要請し、調達した医薬品を持って9月8日に広島入りした。現地では、被害調査に当たるとともに自らも治療に携わった。 - 広島市立高等女学校原爆慰霊碑
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広島市立高等女学校原爆慰霊碑
建立年月日 1948年8月6日 建立者 広島市女原爆遺族会 設計者 河内山賢祐(こうちやまけんすけ)彫刻家 建立の目的 原爆の犠牲となった職員生徒の慰霊 碑文(裏面に)
「友垣にまもられながらやすらかに ねむれみたまよ このくさ山に」(当時校長宮川雅臣)現在の平和記念資料館~平和大通り一帯(爆心地から約500m。当時は材木町~木挽町)の建物疎開作業に来ていた1、2年生541人、職員10人は、全員が亡くなった。同校では他の動員先を含め676人が被爆死し、市内の学校では最も多くの犠牲者を出している。
中央で、E=MC²と刻んだ箱を抱え、天使の翼をもつ制服・モンペ姿の少女は犠牲となったことを表し、両側から友のささげる花輪(慰霊)とハト(平和)に守られている。
E=MC²
原爆の原理になったアインシュタインの相対性理論からとられた原子力エネルギーの公式。連合軍の占領下、「原爆」という文字が使用できなかった当時の事情を表している。碑の移設
1946年、現在の平和大通りの場所に木碑の供養塔が建てられ、3回忌まではそこで慰霊祭が行われた。現在の碑は、1948年に学校の奉安殿跡の草山に建てられた。当時は占領下で慰霊碑の建立が許されず、「平和塔」の名で建立された。被災地近くの現在地に移設されたのは、13回忌の1957年6月20日である。 - 嵐の中の母子像
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嵐の中の母子像
建立年月日 1960年(昭和35年8月5日) 制作者 本郷 新 建立者 広島市婦人会連合会 平和公園の中央をほぼ南北の縦に貫く太い線上に「嵐の中の母子像」「祈りの泉」「資料館」「原爆慰霊碑」「原爆ドーム」と重要なモニュメントが並んでいます。
日本原水協が第5回原水爆禁止世界大会を記念して広島市に贈った彫刻家、本郷新氏の原型(1953年制作)を、広島市婦人連合会がブロンズ像に鋳造することを決め、募金して建立しました。
建設趣意書には「右手に乳飲み子を抱きしめ、左手は後ろから取りすがる子を背負いあげようとしている。片足を大きく踏み出し、上体をぐっと前に傾けて、嵐の正面に立っている総身の筋肉は母の愛の強さを感じさせる」、「私達は広島の母としての決意を示すとともに、ここを訪れる全ての人々に無言の訴えを続ける為、この像を建てたい」とあります。
- 広島平和記念資料館
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広島平和記念資料館
建立年月日 1955年(昭和30年8月) 開館時間 3月~7月と9月~11月 8:30~18:00
(8月は19時閉館、8月5・6日は20時閉館)
12月~2月 8:30~17:00
(入館は閉館30分前まで)休館日 12月30日および31日 観覧料 大人(大学生以上)200円
(30人以上の団体は160円)
高校生100円
(20人以上の場合、160円)
中学生以下無料広島平和記念資料館は、核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に寄与するため、1955(昭和30)年開館しました。その後、資料館内の展示物の整備改善が行われ、1994(平成6)年に東館と西館の一体化が行われ現在の形になりました。東館は広島の歴史と世界の核状況などの展示がされ、地階では平和学習の場として利用できるようになっています。西館は被爆の実相の展示がされており、平和記念公園に入る豪壮な門の役目をしています。高床式となった下の空間は、平和を行動的にたたかいとる人々のエネルギーで満たしたという設計者の考えが込められています。
2024年度 組合員を対象とした定例碑めぐりのご案内
組合員を対象にした自由参加の碑めぐりです。平和公園内・外をご案内します。
月日 | 時間 | コース | 集合場所 | ご案内予定の碑や史跡 |
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4月6日(土) | 10:00~12:00 | 平和記念公園 | 平和記念資料館前 | 平和記念公園内の主要な碑をご案内します |
5月4日(土) | 10:00~12:00 | 広島城 | 表御門 | 中国軍管区司令部跡、大本営跡、陸軍幼年学校跡他 |
6月1日(土) | 10:00~12:00 | 比治山地域 | 比治山下電停前 | 旧ABCC(現:放射線影響研究所)・旧陸軍共同墓地・多聞院など |
7月6日(土) | 10:00~12:00 | 袋町地域 | 袋町小学校平和資料館前 | 袋町小学校、旧日本銀行広島支店、頼山陽史跡資料館 他 |
9月7日(土) | 10:00~12:00 | 本川地域 | 相生橋西詰 | 本川小学校、空鞘神社、清住寺、本川地区慰霊の碑 他 |
10月5日(土) | 10:00~12:00 | 平和記念公園 | 原爆ドーム | 平和記念公園内の主要な碑をご案内します |
11月2日(土) | 10:00~12:00 | 国泰寺・大手町地域 | 白神社 | 広島市役所旧庁舎資料展示室(被爆建物)、第一県女の碑 他 |
12月7日(土) | 10:00~12:00 | 千田地域 | 御幸橋 | 広島赤十字・原爆病院メモリアルパーク |
1月11日(土) | 10:00~12:00 | 平和公園 | 原爆資料館前 | 平和公園内の主要な碑をご案内いたします |
2月1日(土) | 10:00~12:00 | 平和公園 | 原爆ドーム前 | 平和公園内の主要な碑をご案内いたします |
3月8日(土) | 10:00~12:00 | 平和公園 | 原爆資料館前 | 広島赤十字・原爆病院メモリアルパーク |
- 集合場所に碑めぐりガイドが立っています。いずれのコースも10時に出発します。
- 参加費無料。ガイドブックが必要な方は平和公園内150円、公園外50円で当日、購入できます。
碑めぐりガイドについて
「広島市内13コース」のご紹介
原爆の傷跡を残すモニュメントは、平和記念公園の中だけではありません。広島市内全域の碑めぐりガイドブックもございます。もちろん、碑めぐりガイドによるご案内も可能です。お気軽にお問い合せください。
コース名
- 似島地域
- 宇品海岸地域
- 千田地域
- 広島城地域
- 宇品御幸通り地域
- 平和大通り地域
- 比治山地域
- 二葉の里地域
- 横川・寺町地域
- 袋町・本通り地域
- 白島地域
- 基町・本川地域
- その他の地域
修学旅行などで碑めぐりをご希望の方へ(旅行会社の方もご参照ください)
下記「よくいただくお問合せ」をご確認の上お申し込みください。上記「広島市内13コース」のご案内については、「4、広島城地域」「6、平和大通り地域」「10、袋町・本通り地域」のみ可能です。
「広島市内13コース」のご紹介
原爆の傷跡を残すモニュメントは、平和記念公園の中だけではありません。広島市内全域の碑めぐりガイドブックもございます。もちろん、碑めぐりガイドによるご案内も可能です。お気軽にお問い合せください。
ガイド料 | 碑めぐりガイド1名につき¥5000 |
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ガイド時間 | おおむね1時間~2時間程度 |
碑めぐりガイド(団体)お申込みはこちら
お問い合わせはこちら
生協ひろしま大野事務所 総合企画部 くらし応援グループ
担当 大原まで
こちらはお問い合わせ専用です。
碑めぐりガイドのお申込みはWEB申込みからお願いいたします。
よくいただくお問い合わせ
- ○月○日にガイドをお願いしたいのですが?
- WEB申込みから碑めぐりガイド申込フォームに必要事項を記入し、お申し込みください。碑めぐりガイドの会メンバーの活動日程を確認後、受けられるかどうかの連絡をいたします。
用紙の記入方法など分からない場合はお問合わせください。春・秋の修学旅行期には、前後で他団体の申込を受けていることがありますので、いったんお受けした日時での変更は難しいことがあります。変更・キャンセルはできるだけ早めに連絡をいただきますようお願いいたします。
- 100名の生徒が行きますが、何人くらいガイドをお願いすればいい?
- 歩きながら、「碑」の前で説明をしますので、理想は1グループ10名くらい。 100名だったら10名程度のガイドで説明をさせていただくのがよいかと思います。その他、ご希望がございましたら相談ください。
- ガイドは被爆者の方ですか?
- 生協ひろしまの碑めぐりガイドは被爆者ではありません。被爆者の方はご高齢の方が多く、歩きながらの説明が難しい方が多くなってきています。被爆の体験はしていないけれど「語り継いで」いくことを大切に考え、学習や研修を重ねて被爆の実相を伝えています。(最近は、被爆体験を被爆者の方に聞いたあと、碑めぐりを私どもで行うというパターンも増えてきています。)
- 時間はどれくらいかかりますか
- 上記地図上にある碑をご案内いたします。約1.5時間から2時間です。折り鶴を奉納したい等の希望があれば、申込用紙にその旨ご記入ください。
- 集合場所はどこを指定したらよいですか?
- 広島平和資料館の入り口、原爆ドーム前というパターンが多いのですが、平和記念公園までの交通手段によって、出発点を検討されることをおすすめします。地図に集合場所のポイントを示しておりますので、参考にしてください。
集合場所の地図
- 5000円以外にお金はかかりますか?
- 交通費も込みの金額ですので、一切かかりません
- お金はどのようにして払えばいい?
- 当日、ガイドの担当者に現金でお支払いください。申込者名で領収書を発行します。
- ガイドさんと直接打ち合わせがしたい
- 碑めぐりガイドはボランティアグループです。連絡先は「自宅」ということになってしまいますので、直接の連絡はご遠慮願います。必要に応じて、碑めぐりの代表の方の連絡先をご案内させていただきます。
- ガイドさんに、子どもたちからお礼の手紙が書きたいのですが
- ありがとうございます。ガイドさんたちも、子どもさんたちから、手紙をいただいた時、「ガイドをやっていてよかった」と思うそうです。上記の住所にお送りください。碑めぐりガイドの会が定期的に開催する会議で手渡します。