建立年月日 1958年(昭和33年)5月5日
建立者 広島平和を築く児童・生徒の会
制作者 菊地 一雄
これは ぼくらの 叫びです
これは 私たちの 祈りです
世界に平和を きずくための

 折り鶴の像ともいう。佐々木禎子さん(当時2歳)は爆心地から2キロメートルの三篠町の自宅で被爆して10年後、幟町小学校6年生の時、亜急性リンパ腺白血病と診断され日赤病院に入院しました。その時友人からの手紙で、鶴を1000羽折ったら願いがかなうことを知り、薬の包み紙を使って回復を祈りながら折り続けました。何羽折ったか正確な数は分かりませんが、9ヶ月の闘病生活ののち1955年(昭和30年)12歳で死亡しました。折り鶴は死後友人たちに形見として分けられ、その数羽が資料館に展示されています。級友たちは毎月命日の25日に集まることを約束し、「こけしの会」を作りました。会の呼びかけで広島市内の小、中、高の児童会、生徒会が立ち上がり、「広島平和を築く児童・生徒の会」を結成、被爆者に白血病が多発する中、子供たちの手で「原爆の子の像」を作ろうと運動を起こしました。広く国内外へも呼び掛け1958年(昭和33年)5月5日の子供の日に除幕しました。
 折り鶴は「再び被爆者を作らない」決意の証しとして日本及び外国でも反核のシンボルとして使われています。

CLOSE