建立年月日 1971年(昭和46年8月6日)
建設者 原爆犠牲国民学校教師と
子どもの碑建設委員会
制作者 芥川 永
太き骨は 先生ならむ
そのそばに 小さきあたまの骨
あつまれり
正田 篠枝
米軍占領下の中で1946年広島刑務所の印刷部で秘密出版された歌集「ざんげ」は、その後補完の上、被爆歌人の手記「耳鳴り」に「ざんげ」として収録された。

 原爆によって生命を奪われた子どもと教師の霊安かれと祈念するとともに、平和の教育を“ひろしま”の教育として押し進める決意から、一口200円の募金活動を進めて建設したものです。
 1941年(昭和16年)、小学校は国民学校と名を改められ、戦争が激しくなる1944年(昭和19年)11月頃から高等科(現在の中学1〜2年生)の生徒は、建物疎開作業に動員されていました。
 1945年(昭和20年)4月から7月にかけて初等科3年生以上の児童は強制疎開で親元をはなれ、広島市内には1,2年生の低学年が残され、寺院や集会所に分散して授業を続けていました。この頃夏休みは、8月10日から20日までという戦時体制をとっていたようです。
 被爆した教師は200人、児童2000人と推定されていますが、この碑の過去帳に記入された教師は145人、児童870人にすぎません。
 毎年8月4日には市内の小中学校の児童、生徒代表をはじめ、教育関係者がたくさん参加され慰霊祭が行われています。

CLOSE