市内各所に点在する、被爆の実相を伝える「碑」をめぐり、そのいわれと「碑」に込められた「思い」をご案内いたします。訪れた方と一緒に、「平和の尊さ」と「ヒロシマ」を実感、そして後世の人たちに「ヒロシマを語り継ぎたい、そんな思いで活動をしています。このコーナーでは、広島市内13コースある碑めぐりコースのうち、代表的な「平和公園コース」をご紹介、パソコンの画面上での碑めぐりにご案内いたします。
碑めぐりガイドについて
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爆心地周辺
原子爆弾「リトル・ボーイ」を搭載したB29爆撃機「エノラ・ゲイ号」は、四国―福山―西条―府中を経由して、広島駅ウラの山から広島に入り、島外科病院中庭の上空570メートル(プラス・マイナス10メートル)で爆発したといわれています。爆発点の温度、摂氏数百万度、爆心直下では、3000度~7000度の超高温が、約3秒つづいたと考えられています。(鉄の溶ける温度=約1500度、太陽の表面 温度=約5700度)
爆心地を中心に、ほぼ2キロメートル以内にある建物が崩壊焼失、被爆者は、31万~32万人、昭和20年末までの死亡者14万人(誤差プラス・マイナス1万人)と推定されています。原子爆弾の特色は、奇襲性、大量 性、無差別性を持ち、放射能があるため将来的に子供に影響があるといわれている持続性のある点です。
原爆が投下された時、広島県燃料配給統制組合(鉄筋3階建て、現レストハウス)の地下室へ下りていた人は助かっています。この事は瞬時に起こった相反する現象といえます。
昭和20年8月6日、この川は、しかばねと、苦しさのあまり飛び込む人で埋まったといわれています。
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原爆ドーム
原爆ドームの補修・保存工事が終わり完成式のあいさつで荒木市長は、「原爆ドームは風雪に耐えながら核兵器使用による人類自滅の危機を警告するとともに、世界の平和を訴えてきた。核兵器の被害の恐怖を物語る証人として、平和のシンボルとして、永久に保存し、次の世代に引き継いでいかなければならない」と訴えた。
朝日新聞1990.4.17
原爆ドームは、もと広島県産業奨励館といわれ、レンガ造りの3階建てのモダンな建物でした。
あの歴史的な一瞬、この建物は、そこで働いていた約30人の人々と運命を共にしました。しかし、爆心地のほとんど直下にあったため、建物は倒壊をまぬ がれ、がらんどうの残骸を残しました。一面焼野原となった広島で、鉄骨ドームの特色ある姿は、遠くからもはっきりと捉えることができました。周囲の町並が次々と復興されていく中で、ここだけは被爆当時のありさまをそのまま残していました。こうして、いつの頃からか「原爆ドーム」と呼ばれるようになりました。
原爆ドームの歴史
1966(昭和41)年 広島市議会原爆ドーム保存を決議 1966(昭和41)年 浜井広島市長が、保存工事費4,000万円は全額募金でまかなうことを表明 1967(昭和42)年 募金4,000万円を突破、募金打ち切りを表明。最終的には、6,800万円集まる 1967(昭和42)年 保存工事及びドーム周辺整備工事完了 1987(昭和62)年 20年ぶりにドームの調査を行い、その結果 、早い時期に補修工事が必要であることが判明 1989(平成1)年 荒木広島市長が、工事費2億円のうち、1億円は募金によることを表明 1990(平成2)年 原爆ドーム保存工事完了
原爆ドーム保存事業基金設置1996(平成8)年 世界遺産となる ※原爆ドーム保存募金は、平成2年4月で約4億円(8,250件)になり、本工事で使用した1億円を超える残りは、今後原爆ドーム保存のために使われる。 -
原爆犠牲ヒロシマの碑
建立年月日 1982年(昭和57年)8月5日 建立者 原爆犠牲ヒロシマの碑建設委員会 制作者 芥川 永 天が、まっかに 燃えたとき
わたしの からだは とかされた
ヒロシマの 叫びを ともに
世界の人よ
(安田女子高校生蔵田順子さん原案)広島の高校生が元安川河床のフィールドワークを行ない、原爆瓦の発掘調査をすすめてきました。1981年(昭和56年)広島市の美観地区構想は、原爆瓦の散乱は見苦しいので、平和記念公園の周辺の川床に砂を入れて、外観をよくしたというものでした。広島平和ゼミナールの高校生はこの構想に危機感を抱き、全国各地の小・中・高等学校の児童生徒に呼びかけ、運動のきっかけとなりました。
「瓦のひとつひとつに生活を支えた重みがあった」(感想文から)被爆瓦の保存を訴えた、戦争体験を持たない若人達の碑です。ブロンズ像は、テーマ「もどれない風」で昇華する魂を表現したものです。表に被爆がわらを組み合せたパネルと碑文、裏に発掘作業のレリーフ、被爆後の焦土広島の全景写真、これに英文と和文の説明を加えた陶板がはめこまれています。
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広島原爆諸霊位供養塔
建立年月日 1955年(昭和30年) 建立者 広島戦災供養会 平和公園の北側に直径10メートル余りの円形の芝山があります。このあたりは中島本町という繁華街が存在していました。ところがこの町が原爆に依り一瞬にして地獄と化し、数日後黒焦げになった死体や、皮のむけた丸裸の死体が何処からともなく運び込まれ焼かれました。
この場所に翌年仮納骨堂が建てられ、その後10年たった1955年(昭和30年)、現在の円形古墳を形どった供養塔が完成し、各地に散在していた遺骨をここに集め納められました。6~7万柱ともいわれ、そのうち、名前がわかって引きとり手のない方は855人あります。(1997年7月現在)多くは無縁仏で原爆の悲惨さを語り続けています。
供養は毎年8月6日の早朝より夕方まで各宗派がこの場所で供養しています。納骨堂の中には等身大の聖母観音像と約1メートルの多宝塔が1978年までは納められていましたが、別 な場所に移されました。
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原爆の子の像
建立年月日 1958年(昭和33年)5月5日 建立者 広島平和を築く児童・生徒の会 制作者 菊地 一雄 これは ぼくらの 叫びです
これは 私たちの 祈りです
世界に平和を きずくための折り鶴の像ともいう。佐々木禎子さん(当時2歳)は爆心地から2キロメートルの三篠町の自宅で被爆して10年後、幟町小学校6年生の時、亜急性リンパ腺白血病と診断され日赤病院に入院しました。その時友人からの手紙で、鶴を1000羽折ったら願いがかなうことを知り、薬の包み紙を使って回復を祈りながら折り続けました。何羽折ったか正確な数は分かりませんが、9ヶ月の闘病生活ののち1955年(昭和30年)12歳で死亡しました。折り鶴は死後友人たちに形見として分けられ、その数羽が資料館に展示されています。級友たちは毎月命日の25日に集まることを約束し、「こけしの会」を作りました。会の呼びかけで広島市内の小、中、高の児童会、生徒会が立ち上がり、「広島平和を築く児童・生徒の会」を結成、被爆者に白血病が多発する中、子供たちの手で「原爆の子の像」を作ろうと運動を起こしました。広く国内外へも呼び掛け1958年(昭和33年)5月5日の子供の日に除幕しました。
折り鶴は「再び被爆者を作らない」決意の証しとして日本及び外国でも反核のシンボルとして使われています。
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韓国人犠牲者慰霊碑
建立年月日 1970年(昭和45年4月10日) 建立者 在日大韓民国居留民団広島県本部
広島韓国人犠牲者慰霊碑建設委員会(碑文の一部の訳)
「悠久な歴史を通じ、わが韓民族は他人の物を欲しがらなかったし、他民族にも害を加えようとしなかった。(中略)
しかし5000年の長久な民族史を通じ、ここにまつった二万余柱の霊が経験したような悲しくて嘆かわしいことは、かつてなかった。
韓民族は、この太平洋戦争を通じ、国家のない悲しみを骨身にしみるほど感じ、その絶頂が原爆投下の悲劇であった。」
日本が、1910年(明治43年)の日韓併合により朝鮮半島を植民地としたため、生活基盤を失った朝鮮半島の多くの人々が日本に渡ってきました。また戦争が激しくなると 労働力不足を補うため、強制連行や徴用によって、多くの朝鮮人が日本に来ました。当時、 広島市内には数万人の朝鮮人がいて被爆したと言われています。碑は、朝鮮人の一族である李殿下が被災後に救助された場所に近いゆかりの地ということで本川西詰めに建立されました。その後、平和記念公園内への移設について各方面 から強い要望が出され、広島市と関係者との協議により、公園内に南北統一碑を建立することになりましたが、碑文など の問題で折り合いがつかず、当面の措置として1999年7月、公園内に移設されました。
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平和乃観音
建立年月日 1956年(昭和31年8月6日) 建立者 旧中島本町住民 制作者 荒井 秀山 平和公園北側は、昭和初期までもっとも繁華な、中島本町があった所です。爆心地に近かったため、町民は一瞬にしてほとんどが全滅しました。戦後平和公園となったので、8月6日のあの日、外出中で生き残った人たちが集まり、中島本町会を結成しました。今は無い町に対する惜別 の情と犠牲者の慰霊の意を込めて、観音像を建てました。
公園内に、宗教的なものを建ててはならないと、当局からの指導があったのですが、芸術作品であるからと押し切ったそうです。近くには、旧中島本町の復元図があります。
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広島平和都市記念碑
建立年月日 1952年(昭和27年)8月6日 設 計 丹下 健三 安らかに眠って下さい
過ちは
繰返しませぬから
雑賀忠義過去帳と呼ばれている原爆死没者名簿が、納められています。死没者の名は、毎年書き加えられています(1996年8月6日現在19万7045人)。形は、はにわの家型に造られており、犠牲者の霊を雨露から守りたいという気持ちを、表わしています。
現在の慰霊碑は、32年たってコンクリート製のはにわ型の屋根のいたみがひどくなったため、昭和60年3月26日に改築したものです。みかげ石「稲田石」を使い形や大きさは、以前のものと変わりありません。
碑文について解釈はいろいろありますが、現在では、国籍をこえて、この碑の前に立つすべての人間が、自国の問題、人類の一人として、二度と核戦争をしないことを誓うことだという解釈がいきわたっています。
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峠 三吉 詩碑
建立年月日 1963年(昭和38年)8月6日 建立者 峠三吉詩碑建設委員会
平和のための広島県文化会議1950年(昭和25年)11月、朝鮮戦争に原爆使用を検討中であるというアメリカ大統領トルーマンの声明をきき、彼は抗議をこめて、翌年1月~3月の間に「原爆詩集」25編の内18編を書き上げました。碑文は、この詩集の“序”として書かれたものです。
書いた場所は、国立広島療養所の一室で「窓ガラスに、歯みがき粉を溶いてぬり、夜は新聞紙をピンで止め、守衛の目を盗んで、午前1時ごろまでスタンドの灯の下で書いた」(和子夫人の手記)とあります。
1951年(昭和26年)ベルリン世界青年平和祭に、日本代表作品の一つとして「原爆詩集」(孔版)を送り、世界的な反響を与えました。そしてベルリンアピールでは、6億人の署名が集まりました。原爆詩人、峠三吉の詩は、あまりにも有名です。
彼は、爆心地から3キロメートル余りの自宅で被爆。
1953年(昭和28年)3月10日死去、享年36歳でした。 -
原爆犠牲者国民学校教師と子どもの碑
建立年月日 1971年(昭和46年8月6日) 建設者 原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑建設委員会 制作者 芥川 永 太き骨は 先生ならむ
そのそばに 小さきあたまの骨
あつまれり
正田 篠枝
米軍占領下の中で1946年広島刑務所の印刷部で秘密出版された歌集「ざんげ」は、その後補完の上、被爆歌人の手記「耳鳴り」に「ざんげ」として収録された。原爆によって生命を奪われた子どもと教師の霊安かれと祈念するとともに、平和の教育を“ひろしま”の教育として押し進める決意から、一口200円の募金活動を進めて建設したものです。
1941年(昭和16年)、小学校は国民学校と名を改められ、戦争が激しくなる1944年(昭和19年)11月頃から高等科(現在の中学1~2年生)の生徒は、建物疎開作業に動員されていました。
1945年(昭和20年)4月から7月にかけて初等科3年生以上の児童は強制疎開で親元をはなれ、広島市内には1,2年生の低学年が残され、寺院や集会所に分散して授業を続けていました。この頃夏休みは、8月10日から20日までという戦時体制をとっていたようです。
被爆した教師は200人、児童2000人と推定されていますが、この碑の過去帳に記入された教師は145人、児童870人にすぎません。
毎年8月4日には市内の小中学校の児童、生徒代表をはじめ、教育関係者がたくさん参加され慰霊祭が行われています。
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嵐の中の母子像
建立年月日 1960年(昭和35年8月5日) 制作者 本郷 新 建立者 広島市婦人会連合会 平和公園の中央をほぼ南北の縦に貫く太い線上に「嵐の中の母子像」「祈りの泉」「資料館」「原爆慰霊碑」「原爆ドーム」と重要なモニュメントが並んでいます。 1959年(昭和34年)、第5回原水爆禁止世界大会が開かれた折、原水爆禁止日本協議会が、石膏で作ったこの像を広島市民に贈ったものです。
この碑は最も優れた芸術性を持つといわれ、形のすばらしさと共に原爆の残忍さを鋭く訴えかけ、平和への限り無い努力を呼びかけています。
原爆の惨禍の中を、二人の子どもをかばいながら懸命に逃げて行く母の姿です。爆風をさけるため前かがみになった母親は、右腕で赤ん坊をしっかりと抱き、左腕は腰に伸ばして幼な子を背負っています。腕や足が特に大きく強調されて、どんなに激しい嵐にも負けないぞという力強さを現しています。
広島市婦人会連合会が子どもを命がけで守る母の姿、この崇高な姿をぜひ母の手でブロンズ像にして、平和公園に設置することに立ち上がりました。1口20円(今の500円前後)の募金活動を始め、わずか1年で150万円集まり建てられたもので、婦人の強さを示しています。
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広島平和記念資料館
建設年月日 1955年(昭和30年8月) 開館時間 9:00~18:00(入館は17:30まで)
ただし12月1日~4月30日の間は
9:00~17:00(入館は16:30まで)休 日 12月29日~1月2日 料 金 個人50円、小・中30円
(老人健康手帳保持者は無料)
団体 一般40円(30名以上)
小・中・高無料(20名以上)平和公園に入る豪壮な門の役目をしています。高床式となった下の空間は、平和を行動的に、たたかいとる人々の、エネルギーで満たしたいという設計者の考えがこめられています。
昭和30年開館しましたが、その後資料館内の展示物の整備改善が行なわれ、事実を正確に伝える展示形式にするためにあの日の原爆の悲惨な実態を、直接的に訴える被爆現物資料に集約して、慰霊的なもの、祈念的なもの、芸術的なもの、研究的なものなど間接的な資料を外し、被爆の実相を訴える厳粛な資料館として整備がすすめられました。
資料館ロビーには、見学者に感想を書いてもらうための「対話ノート」が備えてあり、その中には資料館を訪れる内外国人の“ヒロシマの心”が書き込まれています。
そのほか、資料館に収蔵中の資料6000点の中から、巡回展示にふさわしいものを選んで、学校、公民館などに貸し出しを行い、より多くの人々に原爆被爆の実態を公開しています。
「広島市内13コース」のご紹介
原爆の傷跡を残すモニュメントは、平和記念公園の中だけではありません。広島市内全域の碑めぐりガイドブックもございます。もちろん、碑めぐりガイドによるご案内も可能です。お気軽にお問い合せください。
| コース名 | |||
|---|---|---|---|
| 1.似島地域 | 5.宇品御幸通り地域 | 9.横川・寺町地域 | 13.その他の地域 |
| 2.宇品海岸地域 | 6.平和大通り地域 | 10.袋町・本通り地域 | |
| 3.千田地域 | 7.比治山地域 | 11.白島地域 | |
| 4.広島城地域 | 8.二葉の里地域 | 12.基町・本川地域 | |
修学旅行などで碑めぐりをご希望の方へ
まずは、下記の項目をご確認の上、お問い合わせ、お申し込みください。
- ・学校名(住所/電話番号/FAX)
- ・碑めぐりをなさる人数(生徒数)
- ・実施日
- ・実施予定時間
ガイド料:碑めぐりガイド1名につき ¥5000 / ガイド時間:おおむね1.5時間~2時間程度
よくいただくお問い合わせ
- ○月○日にガイドをお願いしたいのですが?
- はい。では、ガイドの都合を確認後、連絡いたします(修学旅行シーズンは予約がどんどんはいってきます。お早めにお問い合わせください)。
- 100名の生徒が行きますが、何人くらいガイドをお願いすればいい?
- 野外を歩きながら、「碑」の前で説明をしますので、理想は1グループ20名くらい。 100名だったら5名程度のガイドで説明をさせていただくのがよいかと思います。もちろんクラス単位 での行動も可能ですので、相談してください。
- 被爆者の方にガイドをお願いしたいのですが?
- 生協ひろしまの碑めぐりガイドは、ほとんどの方が被爆者ではありません。被爆者の方はご高齢の方が多く、歩きながらの説明が難しい方が多くなってきています。被爆の体験はしていないけれど「語り継いで」いくことの大切さを子どもたちに伝えたいと考えています。(最近は、被爆体験を被爆者の方に聞いたあと、碑めぐりを私どもで行うというパターンも増えてきています。)
- 時間はどれくらいかかりますか
- 基本的に、上記地図に沿った形でご案内 いたします。約1.5時間~2時間です。
- 30分くらいで済ませたいのですが
- ガイドたちは、それぞれの「碑」に込められた様々な思いを少しでも多くの方に知っていただきたくて、活動しています。いくらなんでも、30分ではその思いは伝わらないと考えますので、無理です。
- 集合場所は
- 広島平和記念資料館の入り口あるいは、原爆ドーム前というパターンが多いですが、相談に応じます。
- 5000円以外にお金はかかりますか?
- 交通費も込みの金額ですので、一切かかりません
- お金はどのようにして払えばいい?
- 当日、ガイドに直接お支払いください。もちろん領収書は準備しております。お気軽にお申しつけください。
- ガイドさんと直接打ち合わせがしたい
- 碑めぐりガイドはボランティアグループです。連絡先は「自宅」ということになってしまいますので、直接の連絡はご遠慮願います。必要に応じて、碑めぐりの代表の方の連絡先をご案内させていただきます。
- ガイドさんに、子どもたちからお礼の手紙が書きたいのですが
- ありがとうございます。ガイドさんたちも、子どもさんたちから、手紙をいただいた時、「ガイドをやっていてよかった」と思うそうです。住所が不明のときはお気軽にお問い合わせください。











